日々の洗濯は気だるい。
汚れた衣服を再び着れるようにする後始末に過ぎないじゃないか。
楽しんでやる者は少ないだろう。
その労働をいくらかでも軽くする試みに、できるだけまとめて洗うのが常套手段だ。
毎日、服を着るのだから、洗濯物が溜まれば、いつでもやらなきゃいけない。
私達が旅行に求めるものの一つは非日常であり、プレディクタブルな毎日からの逃避だ。
だが、非日常を求めた旅行先で観るものは、結局、それはまた、別の日常なのだけれど。
二月にニューヨークへ旅行に行くなど時期外れだ、と言われそうだが、その分航空券も宿も安上がりである。
シーズンではないし、見どころは少ないけれど構わない。
だって、観光雑誌の後追いしたって、ちっとも面白くないじゃないか。
その日は、クイーンズのホテルで目を覚ました。
カーテンを開けると、柔かい陽光が部屋に差し込んだ。
軽く身支度をして、スーツケースに溜まった洗濯物をプラスチックバッグに詰め込んだ。
国が違うと空も違って見えるのはなぜだろう。
どこまでも透き通った深い青空。
赤さびた鉄橋、市内の発展からのけ者にされたような平屋の商店街や、老朽化したアパートがその下に並んでいる。
ピリピリした寒風を切って、フロントにいたインドの男の教えられた通りに、角を2つ、3つ曲がると、むあっと、暖かな空気が体全体に押し寄せてきた。
「うなぎ屋は煙を食わせる」となどと言って、煙の匂いで店先の客を誘うが、「コインランドリーは洗濯洗剤を食わせる」とでも言おうか、洗濯洗剤や柔軟剤の匂いが店の周りに満ちていた。
ガラス扉の前で屯している男たちがいた。
楽しく立ち話をしているその間を通って中に入った。
いくつかの視線がこちらに向いたが、気にしない風にして、店内に目を向けると、広々とした空間にはでずらり洗濯マシンが並んでいた。
どれを使えばいいか見当をつけるべく、それぞれの機械を眺めながら、一番奥まで歩いた。
早朝にも関わらず、大いに活況していた。
朝に洗濯をするのは、衣類をできるだけ長く、陽に当てる目的であるからだが、コインランドリーでは、機械乾燥するのだから、朝にわざわざ来る必要もないかと思われる。
もし洗濯だけをして、乾燥は家でするならば合点がいく。
しかし、多くは、何人の何日分なのかわからないが、一度に干すには多量の洗濯物を抱えているし、またある人は、手のひら一杯のコインを片手に数台のマシンを掛け持ちしている。
隅のほうには、コストコで使うような大きなカートにてんこ盛りの洗濯物が積んである。
そして肝心の乾燥機は一つとして冷却の間を与えれることはなく、ひっきりなしに、ぐおん、ぐおんと稼働している。
ちょこちょこと、広い空間を動き回る若い男がいた。
肌の色は褐色である。
布を持ってガラスを拭いたり、両替機のコインやら、洗濯洗剤やらを補充している。
彼は、若者らしく髪型のセットに抜かりはないが、着ているジーンズと青のポロシャツはぼろである。
貧しい家計を助けるためか、はたまた青春謳歌の資金稼ぎかどうがは知れない。
その働きっぷりはテキパキとしていて感心できる。
ぐるりと店内を眺めまわったが、どのマシンの容量にも、私の洗濯物は少なすぎるようだ。
適当なマシンにめどをつけて中に放り込んだ。
錆びた自販機で洗濯洗剤と思われる品を購入し、マシンの前で、例の青年に
「コインを入れるのはここか」
と指差しで問うと、そうだとうなずいたので、コインを入れスイッチを押した。
脇のプラスチックのベンチに座って、ふっと息をつく。
洗濯機のぐあん、ぐあんとした音や、乾燥機の奏でる轟音、その内部で、カランカランとボタンやチャックなどの金属がぶつかる音が店内に音楽のように響く。
腹も腕も脚も、みんなポンプで膨らましたみたいな丸々の黒人のおばさんが、杖を抱えて座っている老女とげらげら笑いながら、なにか楽しい話をしている。
その脇では、痩せた白人の婦人が黙々と洗濯物を畳んでいる。
肌の色も、性格も、雰囲気も違う人々が、一つの空間にいる様子は、見ているだけで面白い。
そして、そう思う私もまた、きっと誰かの楽しむ風景の一部なのだろう。
マシンの表示では洗濯から乾燥まで一時間は掛かるらしい。
近くの雑貨店でコーヒーを買い、またプラスチックのベンチに座って、甘いコーヒーの匂いと共に時の過ぎるのを待った。
振り返って窓越しに外を見る。
さっきまでぼんやりと穏やかだった太陽は、すっかり目を覚ましたように煌々と、真っ青な空の中から、私を見下ろしていた。
忙しなく過ごしがちな旅行先のコインランドリーで過ごす時間は、数少ない流行中の落ち着ける時だ。
そして、違う国の人々の日常を垣間見るその刹那に、私達と違わない、何かを普遍なもの感じ、安堵するのである。